日本的“野猪”为什么叫「山鲸」?

发布时间:2025-12-04 08:25:39

比方说:


山(やま)鲸(くじら)を喰(く)らう。


吃野猪。

山(やま)鲸(くじら)料(りょう)理(り)


野猪料理

山(やま)鲸(くじら)ラーメン


野猪拉面

島(しま)たまごを使(つか)った山(やま)鲸(くじら)特(とく)製(せい)しし肉(にく)プリン
使用了离岛鸡蛋的野猪肉布丁

日本的“野猪”为什么叫「山鲸」?


山(やま)に鯨(くじら)がいるわけもないのに、これはいったい何(なに)を意(い)味(み)する看(かん)板(ばん)か。正(しょう)体(たい)は、山(やま)鯨(くじら)を食(た)べさせるお店(みせ)なのだ。もちろん鯨(くじら)の肉(にく)などではなく、肉(にく)は肉(にく)でも猪(いのしし)の肉(にく)。だからこの看(かん)板(ばん)は「猪(いのしし)レストラン」ということになりそうである。
山上明明没有鲸鱼的,这个招牌到底是什么意思呢?其实这是家提供野猪料理的店。当然并不是鲸鱼的肉,而是野猪的肉。所以这个招牌的意思就是“野猪肉店”的意思。

こんなややこしい看(かん)板(ばん)を出(だ)すには事(じ)情(じょう)があった。江(え)戸(ど)時(じ)代(だい)はまだ、獣(じゅう)肉(にく)を食(た)べることを良(よ)しとしない風(ふう)潮(ちょう)が強(つよ)く、表(ひょう)だって肉(にく)を食(た)べることは一(いっ)般(ぱん)に避(さ)けられていた。山(やま)くじらは猪(いのしし)の符(ふ)丁(ちょう)のようなものなのである。鯨(くじら)も哺(ほ)乳(にゅう)類(るい)だから同(おな)じに思(おも)えるが、当(とう)時(じ)の人(ひと)々(びと)は海(うみ)にいる鯨(くじら)は魚(さかな)と認(にん)識(しき)していたからである。魚(さかな)ならOKというわけで堂(どう)々(どう)と看(かん)板(ばん)を掲(あ)げて営(えい)業(ぎょう)しているのである。別(べつ)に客(きゃく)を騙(だま)していたわけでもなく、周(しゅう)知(ち)の事(じ)実(じつ)だった。洒(しゃ)落(れ)っ気(け)というか、どこか江(え)戸(ど)の人(ひと)々(びと)の感(かん)覚(かく)はあっけらかんとしている。因(ちな)みに捕(ほ)鯨(げい)は江(え)戸(ど)時(じ)代(だい)前(まえ)には関(かん)西(さい)方(ほう)面(めん)で始(はじ)まっているため、鯨(くじら)は知(し)られていたと思(おも)える。
挂这么复杂的招牌是有原因的。在江户时代,认为吃兽肉不好的风气还很强烈,人们一般也避免在公共场合吃兽肉。「山鲸」相当于是野猪一词的代称、黑话。虽然鲸鱼也是哺乳类动物,但当时的人们认为海里的鲸鱼是鱼。只要是鱼就OK,所以堂而皇之地挂牌营业。这也不是欺骗客人,因为「山鲸」=野猪是众所周知的事实。这或许是江户人的幽默,或许也能从中看出江户人不拘小节的精神。顺带一提,江户时代前关西地区就开始捕鲸了,所以可以认为鲸是众所周知的。

仏(ぶっ)教(きょう)伝(でん)来(らい)以(い)降(こう)、殺生(せっしょう)の戒(いまし)めの影響(えいきょう)が大(おお)きかったのではないだろうか。天(てん)武(む)天(てん)皇(のう)の時(じ)代(だい)には、肉(にく)食(しょく)禁(きん)止(し)の禁(きん)令(れい)も出(だ)されているし、江(え)戸(ど)時(じ)代(だい)の「生(しょう)類(るい)憐(あわれ)みの令(りょう)」は特(とく)殊(しゅ)なケースにしても、綱(つな)吉(よし)は猪(いのしし)肉(にく)や鹿(しか)肉(にく)など、食(た)べることも販(はん)売(ばい)することも禁(きん)じている。それでも、有ゆう史し以い来らい日に本ほん人は狩しゅ猟りょうの時じ代だいからずっとさまざまな獣じゅう肉にくを食たべ続つづけてきたとにくえる。ただ、どの時じ代だいを振ふり返かえっても牛ぎゅう馬ばなどの家か畜ちくを食たべる習しゅう慣かんはなかった。飢き饉きんでもあれば別べつだが、農のう耕こうや合かっ戦せんに支し障しょうをきたすという現げん実じつ的てきな理り由ゆうからである。

自佛教传入以来,禁止杀生的戒律影响很大。在天武天皇时代,还发布过禁止食肉的法令,而江户时代的《生类怜悯令》,虽说是非常极端的例子,但发布者德川綱吉确实禁止了野猪肉和鹿肉等肉类的销售和食用。然而,有史以来,日本人一直猎食各种动物的肉。但是,回顾历史,吃家畜,如牛马等肉类的习惯并不存在。这是因为在现实中,除非出现饥荒,吃了这些家畜会影响农业或战争等方面。


実(じつ)は、徳(とく)川(がわ)将(しょう)軍(ぐん)は牛(ぎゅう)肉(にく)を食(た)べている。誰(だれ)がどれだけ食(た)べていたかは分(わ)からないが、彦(ひこ)根(ね)藩(はん)(井(い)伊(い)家(け))は将(しょう)軍(ぐん)家(け)に牛(ぎゅう)肉(にく)を献(けん)上(じょう)していたのである。それは食(しょく)用(よう)でなく養(よう)生(じょう)用(よう)であるという。つまり、薬(くすり)なのである。したがって、牛(ぎゅう)肉(にく)を食(た)べたことにはならないという都(つ)合(ごう)の良(よ)さ。さぞかしおいしい薬(くすり)だったことだろう。この牛(ぎゅう)肉(にく)がこんにちの「近(おう)江(み)牛(ぎゅう)」のルーツである。将(しょう)軍(ぐん)も庶(しょ)民(みん)も似(に)たようなものだ。牛(ぎゅう)肉(にく)を食(た)べるようになったのは、西(せい)洋(よう)文(ぶん)化(か)が押(お)し寄(よ)せた明(めい)治(じ)以(い)降(こう)だ。仮(か)名(な)垣(がき)魯(ろ)文(ぶん)の『安(あ)愚(ぐ)楽(ら)鍋(なべ)』には、牛(ぎゅう)鍋(なべ)店(てん)で語(かた)り合(あ)う人(ひと)々(びと)の世(せ)相(そう)が生(い)き生(い)きと描(えが)かれている。文(ぶん)明(めい)開(かい)化(か)の代(だい)表(ひょう)的(てき)な光(こう)景(けい)である。明(めい)治(じ)天(てん)皇(のう)が明(めい)治(じ)5年(1872)に牛(ぎゅう)鍋(なべ)を明(めい)治(じ)食(た)べたことから、人(ひと)々(びと)も大(おお)手(で)を振(ふ)って牛(ぎゅう)肉(にく)を食(た)べられるようになって広(ひろ)まった。

实际上,德川将军是吃牛肉的。虽然不知道具体谁吃了多少,但是彦根藩(井伊家)曾向将军家进贡了牛肉。据说那个不是食用而是养生用的。也就是说,是一种药。因此,不等于吃了牛肉。想必是很好吃的药吧。这种牛肉就是今天的“近江牛”的起源。将军和平民都开始吃牛肉是在西洋文化袭来的明治以后。假名垣鲁文的《安愚乐锅》中,生动地描写了人们在牛肉火锅店交谈的世态。这是文明开化的代表性景象。明治天皇在明治5年(1872年)吃到了牛肉火锅,从那以后人们也开始大吃特吃牛肉了。


猪肉还有一种叫法「ぼたん」。


「ぼたん」はお皿(さら)に盛(さか)った肉(にく)の形(かたち)が牡(ぼ)丹(たん)の花(はな)に似(に)ていることから。

这种称呼是因为日本人觉得盛放在盘子里的肉的形状很像牡丹花。


马肉被称为「さくら」。


「さくら」は馬(ば)肉(にく)の色(いろ)が桜(さくら)の色(いろ)に似(に)ていることから

这种称呼是因为日本人觉得马肉的颜色像樱花的颜色。


而鹿肉被称为「もみじ」。


「もみじ」は『奥(おく)山(やま)にもみじ踏(ふ)み分(わ)け鳴(な)く鹿(しか)の声(こえ)聞(き)く時(とき)ぞ秋(あき)は悲(かなし)しき』の和(わ)歌(か)から称(しょう)された名(な)前(まえ)である。

「もみじ」这个名称来源于和歌“走过深山红叶,听到鹿的呼唤,秋天是悲伤的季节”。

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